タレントマネジメントスペシャリスト"まりあっち"のブログ。
生まれてから今現在に至るまで9箇所に住み、11回住み替えた。簡単に振り返る。
・生家(実家)
生まれたのは母が実家に帰っていた時なので正確には「生家」ではないが、品川区で育った。建て替えられるまで住んでいたのは平家で六畳二間に台所と汲み取り式の便所、小さいながら庭があった。
昭和41年頃に父が二階建てに建て替えた。一階に父母の部屋兼茶の間、DK、トイレと風呂。二階に子供ふたりそれぞれの部屋をもらった。
さらに昭和50年頃に父が趣味の店を出すために店舗付き二階建て、トイレ付きを離れとして建てた。店は長く続かず閉じたが、物心ついた私がプライバシーが保てない元の部屋からベランダ越しに「引越し」た。
・高田馬場
大学を出て就職し、働きながらボランティア団体に入れ込んで家に寝に帰るだけの生活。特に父との葛藤があり、アパートを借りて独立。
高田馬場の木造アパート6畳+半畳ほどの板の間、一間の押し入れ、台所とトイレ付き。風呂なしで近所の銭湯に通う。それなりに気に入っていたが、留学資金を貯めることになって実家に戻る。
・実家
離れの5畳半に戻る。留学が決まるまで住む。
・ニューヨーク
幸運にも経営大学院に合格し、会社を辞めて自費留学。学生課で登録されたsublet(住宅の一部を貸し出すもの、下宿よりも間貸しの感覚)で大学院にすぐ近い築100年の立派なアパートメントハウスの一角を借りている日本人に出会い、部屋を借りる。
もともと一部屋だったのを区切った、狭い方。といっても広さは八畳ぐらいあったかも知れない。古い建物だったので天井が高く、狭くても圧迫感がなかった。スチームの暖房が懐かしい。
・兵庫県尼崎市その1
卒業して就職した企業が関西本社だったため、東京の実家をスルーして関西に移る。最初に借りたのはレオパレス方式で壁の薄い賃貸。ロフト付き6畳の二間続き(ただし押し入れがないのでロフトを押し入れ代わりに使った)、台所とユニットバストイレ付き。
管理人さんが昼間いてくれるので、セキュリティが安心だったし、共用スペースの掃除など行き届いていた。
ここで阪神大震災に遭う。建物の被害は軽微だったが近所で水道管が破裂し三週間ほどは水汲みに通う生活だった。管理人さんがいてくれたおかげで建物の修繕なども対応が早かったと思う。
・兵庫県尼崎市その2
その1が最寄り駅から歩いて15分以上だったので不便だったため、引っ越した。たまたま見かけたビルが、破綻した証券会社の社員寮だったところを売却して賃貸住宅にしていたので築年数はかなり経っていたが構造がしっかりしていたのが気に入った。
ひとり暮らしなのに3LDK、LDKは15畳以上という贅沢。それでも関西なので月の家賃は13万円、通勤は30分もかからないという、自分的には「豪邸」だった。
・大田区久が原
関西の勤め先を辞めて東京に戻ってきた時に住んだ家。関西の住居環境に慣れていたので駅から遠くても間取りのあるところを選んだ。
3LDKで南向きでオーナーが一階に住んでいるので築年数ある割に建物としてはしっかりしていたし、管理会社がまともだったので手入れもよかった。
周辺はかなり高級住宅街(の端っこ)。品川区の実家にはバス路線があったので20分ほどで行けるところも、東京に復帰するにはよかった。
しかし大田区の中でも指折りの陸の孤島で、最寄り駅まで歩いて20分弱、バス路線もあったが電車の駅には15分以上かかるという立地であるために都内に通勤するのに1時間かかるという不便さ。音を上げて引越し。
・大田区蒲田
久が原の住まいの管理会社紹介で、分譲貸し物件に。駅から徒歩2分、区役所至近、中型スーパーも警察も消防も税務署も徒歩数分以内という便利さ重視に。
1DKサービスルーム付き。サービスルームとは、部屋の広さと窓が十分でなく部屋としてカウントできない部屋のこと。茶の間兼パソコン部屋にした部屋が西向きでJRの線路からの音が入ってきたので、3畳間ほどの北向きのサービスルームを寝室にした。
品川区の実家にも池上線で20分ほどで行けるのがよかった。
・品川区旗の台その1
父が亡くなった後、実家は母と弟のふたり暮らしに。私は実家に戻らず蒲田から勤め先の千葉市幕張まで毎日往復3時間弱の通勤生活を送っていたのだが、母が家事事故で入院し、退院後に自立歩行できるかどうか微妙だったため、会社を辞めて独立し、実家の近くで見守り暮らしすることに。
最初に住むことになった物件は、管理人さんに逢ったその日が東京にはあり得ないほど大雪の日だった。シングルの人には貸したくない管理人さんに実家の事情やら独立の事情を話し、契約成立。管理人というか管理会社をやってるのは土建屋さんでほぼ向かいだったのでセキュリティもまぁ安心だった。
2階にLDK10.5畳と風呂とトイレ、階段を上がったところに6畳2間とベランダというつくり。実家まで歩いて1分で、最寄り駅まで歩いて2分。池上線沿線で生まれ育った身なので、池上線の踏切の音が終わったころにベッドに潜り込み、初電の踏切音をうとうとしながら子守歌に聞く生活は充実していた。
もう少し住んでいたかったけど、オーナー家族の事情でいつ賃貸契約が切られるかもわからないということで契約更新せず、1年で退去。
・品川区旗の台その2
これも縁だと思うのだけど、上記の賃貸契約更新しないと決めて物件を探していた時に新築で完成前の情報をつかんで住みたいラブコール。入居者が決まっていたという情報もあったけど間に入ったエージェントさんが頑張ってくれて契約成立。
ここもメゾネット。1階に風呂と5.5畳の寝室と0.5畳弱のウォークインクローゼット。2階にトイレと12畳ほどのLDK。
駅2分の距離ながら住宅街の中で静か(近くの家の幼児の声が時々すごいこともあるけど)。治安は都内でもかなりいいところ、しかもセコムが入っている。2階は南向きで日当たりよし(ただし、現在、南側に建て替えがあり、そこそこ騒音あり)。
旗の台の便利さは繰り返すまでもない。移って契約更新し、1年半というところ。
そして実家に住んでいた弟と母が相次いで亡くなったため、悲しみとショックで心身いろいろありつつも、実家の土地と建物を相続した。自分が子供の頃に新築だった実家も築うん十年を超え、建て替えを決意。ひとりで今から住むのに快適な家を設計士さんたちと計画中。
・生家(実家)
生まれたのは母が実家に帰っていた時なので正確には「生家」ではないが、品川区で育った。建て替えられるまで住んでいたのは平家で六畳二間に台所と汲み取り式の便所、小さいながら庭があった。
昭和41年頃に父が二階建てに建て替えた。一階に父母の部屋兼茶の間、DK、トイレと風呂。二階に子供ふたりそれぞれの部屋をもらった。
さらに昭和50年頃に父が趣味の店を出すために店舗付き二階建て、トイレ付きを離れとして建てた。店は長く続かず閉じたが、物心ついた私がプライバシーが保てない元の部屋からベランダ越しに「引越し」た。
・高田馬場
大学を出て就職し、働きながらボランティア団体に入れ込んで家に寝に帰るだけの生活。特に父との葛藤があり、アパートを借りて独立。
高田馬場の木造アパート6畳+半畳ほどの板の間、一間の押し入れ、台所とトイレ付き。風呂なしで近所の銭湯に通う。それなりに気に入っていたが、留学資金を貯めることになって実家に戻る。
・実家
離れの5畳半に戻る。留学が決まるまで住む。
・ニューヨーク
幸運にも経営大学院に合格し、会社を辞めて自費留学。学生課で登録されたsublet(住宅の一部を貸し出すもの、下宿よりも間貸しの感覚)で大学院にすぐ近い築100年の立派なアパートメントハウスの一角を借りている日本人に出会い、部屋を借りる。
もともと一部屋だったのを区切った、狭い方。といっても広さは八畳ぐらいあったかも知れない。古い建物だったので天井が高く、狭くても圧迫感がなかった。スチームの暖房が懐かしい。
・兵庫県尼崎市その1
卒業して就職した企業が関西本社だったため、東京の実家をスルーして関西に移る。最初に借りたのはレオパレス方式で壁の薄い賃貸。ロフト付き6畳の二間続き(ただし押し入れがないのでロフトを押し入れ代わりに使った)、台所とユニットバストイレ付き。
管理人さんが昼間いてくれるので、セキュリティが安心だったし、共用スペースの掃除など行き届いていた。
ここで阪神大震災に遭う。建物の被害は軽微だったが近所で水道管が破裂し三週間ほどは水汲みに通う生活だった。管理人さんがいてくれたおかげで建物の修繕なども対応が早かったと思う。
・兵庫県尼崎市その2
その1が最寄り駅から歩いて15分以上だったので不便だったため、引っ越した。たまたま見かけたビルが、破綻した証券会社の社員寮だったところを売却して賃貸住宅にしていたので築年数はかなり経っていたが構造がしっかりしていたのが気に入った。
ひとり暮らしなのに3LDK、LDKは15畳以上という贅沢。それでも関西なので月の家賃は13万円、通勤は30分もかからないという、自分的には「豪邸」だった。
・大田区久が原
関西の勤め先を辞めて東京に戻ってきた時に住んだ家。関西の住居環境に慣れていたので駅から遠くても間取りのあるところを選んだ。
3LDKで南向きでオーナーが一階に住んでいるので築年数ある割に建物としてはしっかりしていたし、管理会社がまともだったので手入れもよかった。
周辺はかなり高級住宅街(の端っこ)。品川区の実家にはバス路線があったので20分ほどで行けるところも、東京に復帰するにはよかった。
しかし大田区の中でも指折りの陸の孤島で、最寄り駅まで歩いて20分弱、バス路線もあったが電車の駅には15分以上かかるという立地であるために都内に通勤するのに1時間かかるという不便さ。音を上げて引越し。
・大田区蒲田
久が原の住まいの管理会社紹介で、分譲貸し物件に。駅から徒歩2分、区役所至近、中型スーパーも警察も消防も税務署も徒歩数分以内という便利さ重視に。
1DKサービスルーム付き。サービスルームとは、部屋の広さと窓が十分でなく部屋としてカウントできない部屋のこと。茶の間兼パソコン部屋にした部屋が西向きでJRの線路からの音が入ってきたので、3畳間ほどの北向きのサービスルームを寝室にした。
品川区の実家にも池上線で20分ほどで行けるのがよかった。
・品川区旗の台その1
父が亡くなった後、実家は母と弟のふたり暮らしに。私は実家に戻らず蒲田から勤め先の千葉市幕張まで毎日往復3時間弱の通勤生活を送っていたのだが、母が家事事故で入院し、退院後に自立歩行できるかどうか微妙だったため、会社を辞めて独立し、実家の近くで見守り暮らしすることに。
最初に住むことになった物件は、管理人さんに逢ったその日が東京にはあり得ないほど大雪の日だった。シングルの人には貸したくない管理人さんに実家の事情やら独立の事情を話し、契約成立。管理人というか管理会社をやってるのは土建屋さんでほぼ向かいだったのでセキュリティもまぁ安心だった。
2階にLDK10.5畳と風呂とトイレ、階段を上がったところに6畳2間とベランダというつくり。実家まで歩いて1分で、最寄り駅まで歩いて2分。池上線沿線で生まれ育った身なので、池上線の踏切の音が終わったころにベッドに潜り込み、初電の踏切音をうとうとしながら子守歌に聞く生活は充実していた。
もう少し住んでいたかったけど、オーナー家族の事情でいつ賃貸契約が切られるかもわからないということで契約更新せず、1年で退去。
・品川区旗の台その2
これも縁だと思うのだけど、上記の賃貸契約更新しないと決めて物件を探していた時に新築で完成前の情報をつかんで住みたいラブコール。入居者が決まっていたという情報もあったけど間に入ったエージェントさんが頑張ってくれて契約成立。
ここもメゾネット。1階に風呂と5.5畳の寝室と0.5畳弱のウォークインクローゼット。2階にトイレと12畳ほどのLDK。
駅2分の距離ながら住宅街の中で静か(近くの家の幼児の声が時々すごいこともあるけど)。治安は都内でもかなりいいところ、しかもセコムが入っている。2階は南向きで日当たりよし(ただし、現在、南側に建て替えがあり、そこそこ騒音あり)。
旗の台の便利さは繰り返すまでもない。移って契約更新し、1年半というところ。
そして実家に住んでいた弟と母が相次いで亡くなったため、悲しみとショックで心身いろいろありつつも、実家の土地と建物を相続した。自分が子供の頃に新築だった実家も築うん十年を超え、建て替えを決意。ひとりで今から住むのに快適な家を設計士さんたちと計画中。
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