タレントマネジメントスペシャリスト"まりあっち"のブログ。
身内のひとりが亡くなって一ヶ月もたたないうちに、母も逝った。
先日の家族の逝去で気力体力を失って力尽きた……合掌。
……そして私は、家族の殿になった。
先日の家族の逝去で気力体力を失って力尽きた……合掌。
……そして私は、家族の殿になった。
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行年54才。
年老いた母と私のふたりきりになった。
年老いた母と私のふたりきりになった。
1960年生まれの自分は、クリスマスイブの夜にホームパーティを開く習慣は高度経済成長とともに入ってきたものだった。
最初は、バタークリームだった。缶詰のフルーツがスポンジケーキに挟まっていたり、乗っかっていたりした。美味しくもない赤や緑のチェリーもどきがクリスマスカラーだった。
なぜクリスマスに「苺と生クリームのケーキ」を食べるようになったのか (1/4)
不二家やヤマザキがテレビコマーシャルでクリスマスイブに生クリームのケーキを宣伝するようになったのは、昭和40年を過ぎた頃だったと思う。そして、生のイチゴが希少だった頃に、生クリームと生のイチゴのケーキをクリスマスイブのホームパーティで食べることが、核家族の理想的な家族イベントとして認識されるようになった。
クリスマスイブに鶏もも肉を食べる習慣も、日本独自のものだと思う。欧米では七面鳥だから。
アメリカ人「ちょっと待ってくれ!日本ではクリスマスにケンタッキー・フライドチキンを食べてるのか!?」
そもそもフライドチキンはファストフードであってご馳走感ある食べ物ではないよね、アメリカでは。
かと言って、七面鳥はサンクスギビングやクリスマスに五穀豊穣のシンボルとして出されるだけで、味としては茹ですぎた鶏ささみみたいで、美味しくないです。習慣で添えられているクランベリーソースも、パサパサ感を誤魔化しているだけで、美味しいものではありません。
うーん、鶏もも肉のローストを食べるという習慣の方がたぶんKFCの宣伝よりは先にあったと思うのだけど。焼き鳥屋も精肉店も売っていた。そして今ではコンビニのローストチキンやフライドチキンが一年で一番売れる日に。
あとは、すたれてしまったけど、バブル期には高級レストランやホテルのクリスマスイブディナーや宿泊が未婚カップルの、特に男性にとっての一大イベントになってたことがあったっけ。
欧米から見たら、クリスチャンでもない日本のクリスマス食文化はどう映るのかな……。
最初は、バタークリームだった。缶詰のフルーツがスポンジケーキに挟まっていたり、乗っかっていたりした。美味しくもない赤や緑のチェリーもどきがクリスマスカラーだった。
なぜクリスマスに「苺と生クリームのケーキ」を食べるようになったのか (1/4)
不二家やヤマザキがテレビコマーシャルでクリスマスイブに生クリームのケーキを宣伝するようになったのは、昭和40年を過ぎた頃だったと思う。そして、生のイチゴが希少だった頃に、生クリームと生のイチゴのケーキをクリスマスイブのホームパーティで食べることが、核家族の理想的な家族イベントとして認識されるようになった。
クリスマスイブに鶏もも肉を食べる習慣も、日本独自のものだと思う。欧米では七面鳥だから。
アメリカ人「ちょっと待ってくれ!日本ではクリスマスにケンタッキー・フライドチキンを食べてるのか!?」
そもそもフライドチキンはファストフードであってご馳走感ある食べ物ではないよね、アメリカでは。
かと言って、七面鳥はサンクスギビングやクリスマスに五穀豊穣のシンボルとして出されるだけで、味としては茹ですぎた鶏ささみみたいで、美味しくないです。習慣で添えられているクランベリーソースも、パサパサ感を誤魔化しているだけで、美味しいものではありません。
うーん、鶏もも肉のローストを食べるという習慣の方がたぶんKFCの宣伝よりは先にあったと思うのだけど。焼き鳥屋も精肉店も売っていた。そして今ではコンビニのローストチキンやフライドチキンが一年で一番売れる日に。
あとは、すたれてしまったけど、バブル期には高級レストランやホテルのクリスマスイブディナーや宿泊が未婚カップルの、特に男性にとっての一大イベントになってたことがあったっけ。
欧米から見たら、クリスチャンでもない日本のクリスマス食文化はどう映るのかな……。
シス・カンパニー公演 『エノケソ一代記』
ミタニンの作品を全部見ているというファンでもないNHK『新選組!』と『真田丸』はかなり強いファン、舞台なら『12人の優しい日本人』『国民の映画』、映画なら『ラヂオの時間』『笑の大学』『マジックアワー』、テレビドラマ『王様のレストラン』は好き。でも『有頂天ホテル』『清洲会議』は面白くないと思ったし『ギャラクシー街道』は行きもしなかった。
どちらかといえば歴史ドラマの方が好きなのだろうな。
今日は全然笑えなかった。喜劇王エノケンに憧れて最高の偽者になろうとした男、という設定が時代背景や笑いの質も含めて、合わなかった。猿之助さんもすごい役者だと思うのだけど、好みではないということがますます分かってしまった。うーん、1万円近いチケット代出したのだけど、かなしい。。
戦後、喜劇王エノケンこと榎本健一の偽物「エノケソ」が全国各地に出没した。
この主人公も、そんな「エノケソ」の一人だ。
エノケンが大好きで、エノケンに憧れ、エノケンに限りなく近づこうとした男。
演劇史には決して残ることのない、無名の喜劇役者と、
彼を支え続けた妻との、哀しくもおかしい二人三脚の物語。
ミタニンの作品を全部見ているというファンでもないNHK『新選組!』と『真田丸』はかなり強いファン、舞台なら『12人の優しい日本人』『国民の映画』、映画なら『ラヂオの時間』『笑の大学』『マジックアワー』、テレビドラマ『王様のレストラン』は好き。でも『有頂天ホテル』『清洲会議』は面白くないと思ったし『ギャラクシー街道』は行きもしなかった。
どちらかといえば歴史ドラマの方が好きなのだろうな。
今日は全然笑えなかった。喜劇王エノケンに憧れて最高の偽者になろうとした男、という設定が時代背景や笑いの質も含めて、合わなかった。猿之助さんもすごい役者だと思うのだけど、好みではないということがますます分かってしまった。うーん、1万円近いチケット代出したのだけど、かなしい。。
肥満判定ギリギリまで肥えてしまったので、9月からサーキットトレーニングを始めた。過去にカーブス塚口とボディーズ大森に通っていたことがあるので、仕組みにはすぐ慣れた。
カーブス長原は設立から10年以上たっており、ユーザーも一番多い世代順に、60代、70代、50代という世代構成。90代で通ってくる人が3人もいる。通常のスポーツジムに比べて機械の負荷が低く、30分で2周したら終わりというわかりやすさも運動音痴の自分には無理せずに通える仕組みでありがたい。
2ヶ月通って、体重は1キロ減ったかどうかという感じだが、脚から筋肉質に変わっている過程を楽しんでいる。自分の場合は太っても痩せても身体の厚みに出るので、それもまた多少は変化を感じている。
カーブス長原は設立から10年以上たっており、ユーザーも一番多い世代順に、60代、70代、50代という世代構成。90代で通ってくる人が3人もいる。通常のスポーツジムに比べて機械の負荷が低く、30分で2周したら終わりというわかりやすさも運動音痴の自分には無理せずに通える仕組みでありがたい。
2ヶ月通って、体重は1キロ減ったかどうかという感じだが、脚から筋肉質に変わっている過程を楽しんでいる。自分の場合は太っても痩せても身体の厚みに出るので、それもまた多少は変化を感じている。
品川区生まれ育ちで、大田区にも7年間2ヵ所居住しているので、「シン・ゴジラ」の第二形態、通称「蒲田くん」が荒らしたエリアはおなじみ。第四形態、通称「鎌倉くん」と自衛隊が多摩川で激突するエリアも、南大井とか品川神社周辺にも馴染みがあるので、ひとことでいえば「ふるさとをゴジラに蹂躙された感」をもって、鑑賞した。
なので、ゆかりの地・蒲田のテアトル蒲田で「シン・ゴジラ」を観ようと思うのは、(元)地元民として当然の選択。
『シン・ゴジラ』を"縁の地"である蒲田で観て来た(テアトル蒲田/通算6回目)
![](https://blog.cnobi.jp/v1/blog/user/c5ad5f12dd9deaab2fe206c6f31291cf/1473841708)
どこかに、片桐はいりさんのサインが入ったポスターが貼ってあったらしいが、それは見損ねた。おそらく昭和30年代、映画の全盛期に建てられたであろうビルの4階で、レディース・デーなので1,100円。空調の調子が悪いというのも、初代ゴジラの時代に敬意を表して、ちょっと我慢しよう。
阪神大震災の時は尼崎市に住んでいて、たぶん震度6弱ぐらいの地震を体験した。周辺では幸い、全壊はほとんどなかったが、水道管近くで破裂し、2週間は破裂した水道管に水汲みに行く生活を体験しながら、深刻な被害を蒙った社員と家族の支援に参加した。
東日本大震災の時は千葉の幕張で仕事をしていたので、液状化現象で湾岸の埋め立て地がグズグズになるのも体験したし、交通が寸断されて幕張で一晩足止めされながら東北のいくつもの都市が津波に呑まれる映像を一晩中テレビで見ていた。そして、10日間出勤できなかったので、ずっと被災地、わけてもフクイチの報道に釘付けだった。
なので、ゴジラの第二形態、通称「蒲田くん」が呑川河口に出現した時は、まるで東日本大震災が東北の各都市に起こした津波の局地版。突如の災厄に、瓦礫となる街。ああ、呑川河口(探検気分で河口まで散策したことがあるので、リアルにわかる)、蒲田東口商店街、南大井周辺。そして、再上陸した第四形態を迎え撃つ多摩川の丸子橋周辺は子供の頃に散歩でよく来ていたし、通った田園調布高校の野球部グラウンドもすぐ近くにある。自衛隊が陣取った多摩川の浅間神社は花見のついでに立ち寄ったし、南大井とか品川神社とか、京急線沿線は近いわけではないけど、品川区大田区、私のふるさとを踏みにじっていく巨大不明生物は、ゴジラであって、近く起こるかも知れない地震の暗喩でもあり、そして原発を抱えている日本がリスクとして持っている原発事故の暗喩でもある。それは、予告もなく、いきなり来る。そして、生活も経済も破壊される。
「シン・ゴジラ」は、いろいろな意味で頼りにならない中央政府と、命がけで頑張る現場の人々も描いている。それが、戦後の日本を復興させてきた原動力であるとともに、そこに希望を持たせるのは、いいと思う。ただ、私たちは東日本大震災という想定外の天災を経験した以上、もっと災害に強い国と街をつくらねばと思う。ゴジラに破壊された東京をゼロから復興させるのとは違う、いろいろなしがらみを抱えたままの東京を。
なので、ゆかりの地・蒲田のテアトル蒲田で「シン・ゴジラ」を観ようと思うのは、(元)地元民として当然の選択。
『シン・ゴジラ』を"縁の地"である蒲田で観て来た(テアトル蒲田/通算6回目)
どこかに、片桐はいりさんのサインが入ったポスターが貼ってあったらしいが、それは見損ねた。おそらく昭和30年代、映画の全盛期に建てられたであろうビルの4階で、レディース・デーなので1,100円。空調の調子が悪いというのも、初代ゴジラの時代に敬意を表して、ちょっと我慢しよう。
阪神大震災の時は尼崎市に住んでいて、たぶん震度6弱ぐらいの地震を体験した。周辺では幸い、全壊はほとんどなかったが、水道管近くで破裂し、2週間は破裂した水道管に水汲みに行く生活を体験しながら、深刻な被害を蒙った社員と家族の支援に参加した。
東日本大震災の時は千葉の幕張で仕事をしていたので、液状化現象で湾岸の埋め立て地がグズグズになるのも体験したし、交通が寸断されて幕張で一晩足止めされながら東北のいくつもの都市が津波に呑まれる映像を一晩中テレビで見ていた。そして、10日間出勤できなかったので、ずっと被災地、わけてもフクイチの報道に釘付けだった。
なので、ゴジラの第二形態、通称「蒲田くん」が呑川河口に出現した時は、まるで東日本大震災が東北の各都市に起こした津波の局地版。突如の災厄に、瓦礫となる街。ああ、呑川河口(探検気分で河口まで散策したことがあるので、リアルにわかる)、蒲田東口商店街、南大井周辺。そして、再上陸した第四形態を迎え撃つ多摩川の丸子橋周辺は子供の頃に散歩でよく来ていたし、通った田園調布高校の野球部グラウンドもすぐ近くにある。自衛隊が陣取った多摩川の浅間神社は花見のついでに立ち寄ったし、南大井とか品川神社とか、京急線沿線は近いわけではないけど、品川区大田区、私のふるさとを踏みにじっていく巨大不明生物は、ゴジラであって、近く起こるかも知れない地震の暗喩でもあり、そして原発を抱えている日本がリスクとして持っている原発事故の暗喩でもある。それは、予告もなく、いきなり来る。そして、生活も経済も破壊される。
「シン・ゴジラ」は、いろいろな意味で頼りにならない中央政府と、命がけで頑張る現場の人々も描いている。それが、戦後の日本を復興させてきた原動力であるとともに、そこに希望を持たせるのは、いいと思う。ただ、私たちは東日本大震災という想定外の天災を経験した以上、もっと災害に強い国と街をつくらねばと思う。ゴジラに破壊された東京をゼロから復興させるのとは違う、いろいろなしがらみを抱えたままの東京を。
アルゼンチンタンゴと出会ったのは大学でスペイン語を専攻していた時に、母が菅原洋一のタンゴがいいと言ったところから、藤沢蘭子を知り、さらにアルゼンチンタンゴを聴き。ダンスを習い始めたのは1999年、関西で友人が習っていた教室に通うことになり、2007年末に仕事をやめて関西から東京に戻って来るまで8年間、団体レッスンから個人レッスンになり、神戸などで行われるミロンガに参加したり、自主練習会のグループに参加したり、それなりに趣味として週末の時間を使っていた。
東京に戻ってからはなかなか機会がなかったが、2012年に個人レッスン再開して2年ほどやっていたが、母の入退院と退職・独立を経て、ちょっと遠ざかっていた。
けど、伝説のダンサー、ファン・カルロス・コペスとマリア・ニエベスの映画と聞いて、翌日すぐに見に行った。
映画「ラスト・タンゴ」公式サイト
ファン・カルロス・コペスというよりは、マリア・ニエベスの映画だった。天才ダンサーであるコペスに出会って、自分の才能を開花させ、男女の仲となる。しかし、コペスは次々と女に手を出し、やがて結婚して子供までもうけていることを何年もたって知るという仕打ちに遭い、コペスを憎みながら、ダンスのパートナーとして長年組むことに。しかし、最終的にペアを解消。コペスは最終的に自分の娘をダンスのパートナーにするが、その娘の述懐は「パパはマリアのクローンを私に求めた」。
強い女。タンゴを愛し、人生のパートナーよりもタンゴを選び、別れた男とタンゴを踊り続けた女。すごい。
東京に戻ってからはなかなか機会がなかったが、2012年に個人レッスン再開して2年ほどやっていたが、母の入退院と退職・独立を経て、ちょっと遠ざかっていた。
けど、伝説のダンサー、ファン・カルロス・コペスとマリア・ニエベスの映画と聞いて、翌日すぐに見に行った。
映画「ラスト・タンゴ」公式サイト
ファン・カルロス・コペスというよりは、マリア・ニエベスの映画だった。天才ダンサーであるコペスに出会って、自分の才能を開花させ、男女の仲となる。しかし、コペスは次々と女に手を出し、やがて結婚して子供までもうけていることを何年もたって知るという仕打ちに遭い、コペスを憎みながら、ダンスのパートナーとして長年組むことに。しかし、最終的にペアを解消。コペスは最終的に自分の娘をダンスのパートナーにするが、その娘の述懐は「パパはマリアのクローンを私に求めた」。
強い女。タンゴを愛し、人生のパートナーよりもタンゴを選び、別れた男とタンゴを踊り続けた女。すごい。
21年前の1月17日5時46分、私は当時住んでいた兵庫県尼崎市上ノ島町のアパート(レオパレス風)で眠っていました。トロトロと浅い眠りにあったと思います。
ゴゴゴゴゴという地鳴りが聞こえ、その後、ベッドが左右に40センチほども揺れました。東京に住んでいた時にも体験したことのない、大きな揺れでした。私の寝室の天井はロフトになっていましたので、あのロフトの大きな板が落ちてきたら死ぬかも知れないと考えましたが、余りの揺れに身動きひとつ取れませんでした。
外でも何かが崩れるような音がしたかも知れませんが、注意を払う余裕はありませんでした。
2分ほどの大きな揺れが済んだら、すぐに硬貨を持って近所の公衆電話に行きました。緊急時には被災地から市街への電話が優先されること、それも自宅ではなく公衆電話、とは、体験的に思うことです。まだ眠っていた東京の老親を電話でたたき起こし、関西方面で大きな地震があったこと、私は無事なので心配しないで欲しいことを伝えました。
アパートに戻って、自宅の被害確認です。地震の向きが家具の配置に幸いしたのか、冷蔵庫の扉が開いて食品が出てきてしまっている程度でした。背が低いので食器は足元に置いていたため、割れ物はありませんでした。飛ぶと凶器になったかも知れないパソコンのモニターは、台となっている机から落ちかかっていましたが、ケーブルで支えられ、床には落ちませんでした。
7時前に電気が回復し、そこで私は倒壊した国道2号線を見ました。尼崎でも私は阪急線沿線ですが、南の阪神沿線、隣の西宮市、さらに芦屋市や神戸市ではもっと大きな被害があるに違いありません。
ガスは私の近所では大きな被害がなく、普通に使えました。水道は近所で大きく破裂したところがあり、復旧に2週間かかりました。それまでは、水道管が割れているところにバケツで水を汲んで、水洗トイレで流すために使いました。風呂は、新大阪の勤め先の会社が被災社員と家族にホテルを手配した時、シャワールームを設置してくれたので、それを使いました。
当日は阪急神戸線もJR東海道線もその他の線も止まっていた(一応昼まで近所の駅まで歩いて確認しました)、その日は会社に行きませんでした。が、部下全員と電話で安否確認し、上司に報告しました。どうやら、その上司が神戸市内で一番被害を受けているようでした。
翌日、阪急神戸線が塚口から梅田までは復旧しましたので、新大阪の会社に出社しました。スチールの書類棚が散乱してえらいことになっている階もありました。コンピュータルームも被害を受けていたようです。他の部の部長が「人事は昨日誰も来なかった」と責めました……すみません、みんな遠いところから通っていたので。
営業部を中心に対策本部が稼働し始め、私達人事はまず社員の住所や連絡先を出して、各部に安否確認をお願いしました。
社員で亡くなった方はいませんでしたが、祖父を亡くした社員、幼いお子さんをふたり亡くした社員がいました。合掌
営業部の方々は社用車に救援物資をのせて、毎日、被災地に住む社員宅を訪れて救援物資を渡す活動をしていました。また、被災地に住んでボランティアをする社員もいました。
私達人事部は通常業務を最低限維持しながら、近所のホテルとアパートを被災者の仮住まいに確保したり、お見舞い金や被災した家の建て直しへの補助金制度など、毎日、話し合いました。私が人材開発の管理職として仕事に戻れたのは、その年の3月でした。
阪神淡路大震災では、多くの方々が被災し、亡くなったり、負傷したりしました。合掌。
ゴゴゴゴゴという地鳴りが聞こえ、その後、ベッドが左右に40センチほども揺れました。東京に住んでいた時にも体験したことのない、大きな揺れでした。私の寝室の天井はロフトになっていましたので、あのロフトの大きな板が落ちてきたら死ぬかも知れないと考えましたが、余りの揺れに身動きひとつ取れませんでした。
外でも何かが崩れるような音がしたかも知れませんが、注意を払う余裕はありませんでした。
2分ほどの大きな揺れが済んだら、すぐに硬貨を持って近所の公衆電話に行きました。緊急時には被災地から市街への電話が優先されること、それも自宅ではなく公衆電話、とは、体験的に思うことです。まだ眠っていた東京の老親を電話でたたき起こし、関西方面で大きな地震があったこと、私は無事なので心配しないで欲しいことを伝えました。
アパートに戻って、自宅の被害確認です。地震の向きが家具の配置に幸いしたのか、冷蔵庫の扉が開いて食品が出てきてしまっている程度でした。背が低いので食器は足元に置いていたため、割れ物はありませんでした。飛ぶと凶器になったかも知れないパソコンのモニターは、台となっている机から落ちかかっていましたが、ケーブルで支えられ、床には落ちませんでした。
7時前に電気が回復し、そこで私は倒壊した国道2号線を見ました。尼崎でも私は阪急線沿線ですが、南の阪神沿線、隣の西宮市、さらに芦屋市や神戸市ではもっと大きな被害があるに違いありません。
ガスは私の近所では大きな被害がなく、普通に使えました。水道は近所で大きく破裂したところがあり、復旧に2週間かかりました。それまでは、水道管が割れているところにバケツで水を汲んで、水洗トイレで流すために使いました。風呂は、新大阪の勤め先の会社が被災社員と家族にホテルを手配した時、シャワールームを設置してくれたので、それを使いました。
当日は阪急神戸線もJR東海道線もその他の線も止まっていた(一応昼まで近所の駅まで歩いて確認しました)、その日は会社に行きませんでした。が、部下全員と電話で安否確認し、上司に報告しました。どうやら、その上司が神戸市内で一番被害を受けているようでした。
翌日、阪急神戸線が塚口から梅田までは復旧しましたので、新大阪の会社に出社しました。スチールの書類棚が散乱してえらいことになっている階もありました。コンピュータルームも被害を受けていたようです。他の部の部長が「人事は昨日誰も来なかった」と責めました……すみません、みんな遠いところから通っていたので。
営業部を中心に対策本部が稼働し始め、私達人事はまず社員の住所や連絡先を出して、各部に安否確認をお願いしました。
社員で亡くなった方はいませんでしたが、祖父を亡くした社員、幼いお子さんをふたり亡くした社員がいました。合掌
営業部の方々は社用車に救援物資をのせて、毎日、被災地に住む社員宅を訪れて救援物資を渡す活動をしていました。また、被災地に住んでボランティアをする社員もいました。
私達人事部は通常業務を最低限維持しながら、近所のホテルとアパートを被災者の仮住まいに確保したり、お見舞い金や被災した家の建て直しへの補助金制度など、毎日、話し合いました。私が人材開発の管理職として仕事に戻れたのは、その年の3月でした。
阪神淡路大震災では、多くの方々が被災し、亡くなったり、負傷したりしました。合掌。
会社を設立して満1年過ぎた。まだまだだけど、いくつか芽を見つけた。
パートナーシップで進める仕事の比率が高くなりそうだ。好きな分野の仕事ではあるし、関わる人たちそれぞれの得意分野がうまく組み合わされ、そしてバートナー同士に価値観の揺らぎがない。今年から来年にかけては、このビジネスを育てていこうと思う。
パートナーシップで進める仕事の比率が高くなりそうだ。好きな分野の仕事ではあるし、関わる人たちそれぞれの得意分野がうまく組み合わされ、そしてバートナー同士に価値観の揺らぎがない。今年から来年にかけては、このビジネスを育てていこうと思う。
今日は若手海外MBAの朝活で、あるITベンチャーを起業した方の半生と今の事業のお話を伺った。お話を伺っているうちに、やっぱり20代までの環境や経験と学習で人はつくられていくんだなぁと思った。
じゃ、翻って自分はどうか。忘れないうちに思い出したいくつかの雑感をメモしたい。
・産業革命以降の近代社会の中でつくられた、学校による教育システムが嫌いだった
勉強は好き。でも年齢で勝手にグルーピングされて閉じ込められ、興味や学力に関係なく同じプログラムを強制されるのが嫌だった。そして40人規模の学級という集団での生活も嫌だった。
運動能力がむちゃ弱かったから体育が苦手で、体育のクラスと運動会ではいつも惨めな思いをした。だから体育会系も嫌い。
勉強は好き。でも一学期のうちに教科書パラパラ読んで一学年分わかっちゃうところがあったから、授業中はいつも落書きしたり夢想したりしてた。
高校生ぐらいになると先生に気遣って、わかるところは挙手するんだけど、クラスで挙手するのはいつも私だけだった。うーん、空気読めない子。
いま思うと、ひとり寺子屋というか、ひとりフリースクールしてた。好きなことは自分で本読んで調べたり、宿題でもないのにレポート書いたり。でもそれを指導してくれる人がいなかった。
たぶん、今の時代だったら登校拒否して、図書館で勉強して高校卒業程度の学力は自分で身につけていただろう。
・教育投資は人生を切り開くために必要だと確信していた
親を見ていて、自分の人生に選択肢を持つには学力というか学歴が必要だと思った。
裕福ではなかったので何も言わなかったら高卒で終わっていただろう。でも大学に行きたかったので、高校の推薦入学枠を使って進学する話を先に進めてから、両親に進学したいと言った。
そして、入学金免除とか、学費優遇とか、育英会奨学金とか、使えるものは使った。もちろんアルバイトもした。
そして、20代後半、キャリア転換のために、海外留学を考えて準備した。31才でアメリカに渡り、33才でMBAを取得した。
学費は奨学金が利用できず、親がなけなしの資産から私の結婚資金として貯金していたのを借り、帰国して10年かけて完済した。
・好きな時間に好きな勉強ができ、年齢の違いに関係なく交流できた大学や大学院は好きだった
大学入学して嬉しかったのは、外国語学部だったから学年でクラス編成はあるけど、選択科目は自分で選べることだったり、年齢に関係なく興味のあることに取り組めたことだったり。クラブ活動はもちろん、NPOに入って歳の離れた友人を沢山つくった。
・語学力は自分の身を立てる武器になると思った
中学校で英語を習い始めた時、一学期は並みの成績だった。幸い、親が同学年の子と家庭教師をシェアしてくれて、この大学生が生きた英語力を教えてくれたおかげで興味をもって勉強できた。
塾とか行くお金なかったけど、中学3年間の英語の家庭教師は本当にありがたかった。
中学時代、その時はまだどんな職業が世の中にあるか知らなかったので、漠然とオーストラリアに移住しようと考えたり、同時通訳者にあこがれたり、何となく語学力を強みに生活を立てると考えた。
小遣いがあまりないので、郵便友の会経由で英文で文通相手をつくり、英語のライティングを自力で学んだ。高校では英語クラブに入って、アメリカ人と直接話す機会をつくった。
英語一本で入学試験受けるため、夏休みは一日9時間英語漬け。でも受験英語なんて馬鹿馬鹿しかったから、ラジオの英会話プログラムを活用してリスニングとスピーキングとライティングもがっつりやった。後年アメリカでMBA留学するために必要な英語の基礎は、18才の時にできていた。そして、推薦入学試験の英語テストの結果はクラスでも最上位グループに入っていたと思う。
大学はスペイン語専攻だったけど、クラブ活動で英語を書く機会をつくった。
☆★☆★
とりあえずここまで。
じゃ、翻って自分はどうか。忘れないうちに思い出したいくつかの雑感をメモしたい。
・産業革命以降の近代社会の中でつくられた、学校による教育システムが嫌いだった
勉強は好き。でも年齢で勝手にグルーピングされて閉じ込められ、興味や学力に関係なく同じプログラムを強制されるのが嫌だった。そして40人規模の学級という集団での生活も嫌だった。
運動能力がむちゃ弱かったから体育が苦手で、体育のクラスと運動会ではいつも惨めな思いをした。だから体育会系も嫌い。
勉強は好き。でも一学期のうちに教科書パラパラ読んで一学年分わかっちゃうところがあったから、授業中はいつも落書きしたり夢想したりしてた。
高校生ぐらいになると先生に気遣って、わかるところは挙手するんだけど、クラスで挙手するのはいつも私だけだった。うーん、空気読めない子。
いま思うと、ひとり寺子屋というか、ひとりフリースクールしてた。好きなことは自分で本読んで調べたり、宿題でもないのにレポート書いたり。でもそれを指導してくれる人がいなかった。
たぶん、今の時代だったら登校拒否して、図書館で勉強して高校卒業程度の学力は自分で身につけていただろう。
・教育投資は人生を切り開くために必要だと確信していた
親を見ていて、自分の人生に選択肢を持つには学力というか学歴が必要だと思った。
裕福ではなかったので何も言わなかったら高卒で終わっていただろう。でも大学に行きたかったので、高校の推薦入学枠を使って進学する話を先に進めてから、両親に進学したいと言った。
そして、入学金免除とか、学費優遇とか、育英会奨学金とか、使えるものは使った。もちろんアルバイトもした。
そして、20代後半、キャリア転換のために、海外留学を考えて準備した。31才でアメリカに渡り、33才でMBAを取得した。
学費は奨学金が利用できず、親がなけなしの資産から私の結婚資金として貯金していたのを借り、帰国して10年かけて完済した。
・好きな時間に好きな勉強ができ、年齢の違いに関係なく交流できた大学や大学院は好きだった
大学入学して嬉しかったのは、外国語学部だったから学年でクラス編成はあるけど、選択科目は自分で選べることだったり、年齢に関係なく興味のあることに取り組めたことだったり。クラブ活動はもちろん、NPOに入って歳の離れた友人を沢山つくった。
・語学力は自分の身を立てる武器になると思った
中学校で英語を習い始めた時、一学期は並みの成績だった。幸い、親が同学年の子と家庭教師をシェアしてくれて、この大学生が生きた英語力を教えてくれたおかげで興味をもって勉強できた。
塾とか行くお金なかったけど、中学3年間の英語の家庭教師は本当にありがたかった。
中学時代、その時はまだどんな職業が世の中にあるか知らなかったので、漠然とオーストラリアに移住しようと考えたり、同時通訳者にあこがれたり、何となく語学力を強みに生活を立てると考えた。
小遣いがあまりないので、郵便友の会経由で英文で文通相手をつくり、英語のライティングを自力で学んだ。高校では英語クラブに入って、アメリカ人と直接話す機会をつくった。
英語一本で入学試験受けるため、夏休みは一日9時間英語漬け。でも受験英語なんて馬鹿馬鹿しかったから、ラジオの英会話プログラムを活用してリスニングとスピーキングとライティングもがっつりやった。後年アメリカでMBA留学するために必要な英語の基礎は、18才の時にできていた。そして、推薦入学試験の英語テストの結果はクラスでも最上位グループに入っていたと思う。
大学はスペイン語専攻だったけど、クラブ活動で英語を書く機会をつくった。
☆★☆★
とりあえずここまで。
プロフィール
HN:
まりあっち
性別:
非公開
自己紹介:
タレントマネジメント(人材開発・組織開発・パフォーマンスマネジメント・採用など)のスペシャリスト。
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