忍者ブログ
タレントマネジメントスペシャリスト"まりあっち"のブログ。
21年前の1月17日5時46分、私は当時住んでいた兵庫県尼崎市上ノ島町のアパート(レオパレス風)で眠っていました。トロトロと浅い眠りにあったと思います。
 ゴゴゴゴゴという地鳴りが聞こえ、その後、ベッドが左右に40センチほども揺れました。東京に住んでいた時にも体験したことのない、大きな揺れでした。私の寝室の天井はロフトになっていましたので、あのロフトの大きな板が落ちてきたら死ぬかも知れないと考えましたが、余りの揺れに身動きひとつ取れませんでした。
 外でも何かが崩れるような音がしたかも知れませんが、注意を払う余裕はありませんでした。

 2分ほどの大きな揺れが済んだら、すぐに硬貨を持って近所の公衆電話に行きました。緊急時には被災地から市街への電話が優先されること、それも自宅ではなく公衆電話、とは、体験的に思うことです。まだ眠っていた東京の老親を電話でたたき起こし、関西方面で大きな地震があったこと、私は無事なので心配しないで欲しいことを伝えました。

 アパートに戻って、自宅の被害確認です。地震の向きが家具の配置に幸いしたのか、冷蔵庫の扉が開いて食品が出てきてしまっている程度でした。背が低いので食器は足元に置いていたため、割れ物はありませんでした。飛ぶと凶器になったかも知れないパソコンのモニターは、台となっている机から落ちかかっていましたが、ケーブルで支えられ、床には落ちませんでした。

 7時前に電気が回復し、そこで私は倒壊した国道2号線を見ました。尼崎でも私は阪急線沿線ですが、南の阪神沿線、隣の西宮市、さらに芦屋市や神戸市ではもっと大きな被害があるに違いありません。

 ガスは私の近所では大きな被害がなく、普通に使えました。水道は近所で大きく破裂したところがあり、復旧に2週間かかりました。それまでは、水道管が割れているところにバケツで水を汲んで、水洗トイレで流すために使いました。風呂は、新大阪の勤め先の会社が被災社員と家族にホテルを手配した時、シャワールームを設置してくれたので、それを使いました。

 当日は阪急神戸線もJR東海道線もその他の線も止まっていた(一応昼まで近所の駅まで歩いて確認しました)、その日は会社に行きませんでした。が、部下全員と電話で安否確認し、上司に報告しました。どうやら、その上司が神戸市内で一番被害を受けているようでした。

 翌日、阪急神戸線が塚口から梅田までは復旧しましたので、新大阪の会社に出社しました。スチールの書類棚が散乱してえらいことになっている階もありました。コンピュータルームも被害を受けていたようです。他の部の部長が「人事は昨日誰も来なかった」と責めました……すみません、みんな遠いところから通っていたので。

 営業部を中心に対策本部が稼働し始め、私達人事はまず社員の住所や連絡先を出して、各部に安否確認をお願いしました。

 社員で亡くなった方はいませんでしたが、祖父を亡くした社員、幼いお子さんをふたり亡くした社員がいました。合掌

 営業部の方々は社用車に救援物資をのせて、毎日、被災地に住む社員宅を訪れて救援物資を渡す活動をしていました。また、被災地に住んでボランティアをする社員もいました。

 私達人事部は通常業務を最低限維持しながら、近所のホテルとアパートを被災者の仮住まいに確保したり、お見舞い金や被災した家の建て直しへの補助金制度など、毎日、話し合いました。私が人材開発の管理職として仕事に戻れたのは、その年の3月でした。

 阪神淡路大震災では、多くの方々が被災し、亡くなったり、負傷したりしました。合掌。
PR
会社を設立して満1年過ぎた。まだまだだけど、いくつか芽を見つけた。

 パートナーシップで進める仕事の比率が高くなりそうだ。好きな分野の仕事ではあるし、関わる人たちそれぞれの得意分野がうまく組み合わされ、そしてバートナー同士に価値観の揺らぎがない。今年から来年にかけては、このビジネスを育てていこうと思う。
今日は若手海外MBAの朝活で、あるITベンチャーを起業した方の半生と今の事業のお話を伺った。お話を伺っているうちに、やっぱり20代までの環境や経験と学習で人はつくられていくんだなぁと思った。

 じゃ、翻って自分はどうか。忘れないうちに思い出したいくつかの雑感をメモしたい。

・産業革命以降の近代社会の中でつくられた、学校による教育システムが嫌いだった

 勉強は好き。でも年齢で勝手にグルーピングされて閉じ込められ、興味や学力に関係なく同じプログラムを強制されるのが嫌だった。そして40人規模の学級という集団での生活も嫌だった。

 運動能力がむちゃ弱かったから体育が苦手で、体育のクラスと運動会ではいつも惨めな思いをした。だから体育会系も嫌い。

 勉強は好き。でも一学期のうちに教科書パラパラ読んで一学年分わかっちゃうところがあったから、授業中はいつも落書きしたり夢想したりしてた。
 高校生ぐらいになると先生に気遣って、わかるところは挙手するんだけど、クラスで挙手するのはいつも私だけだった。うーん、空気読めない子。
 いま思うと、ひとり寺子屋というか、ひとりフリースクールしてた。好きなことは自分で本読んで調べたり、宿題でもないのにレポート書いたり。でもそれを指導してくれる人がいなかった。

 たぶん、今の時代だったら登校拒否して、図書館で勉強して高校卒業程度の学力は自分で身につけていただろう。

・教育投資は人生を切り開くために必要だと確信していた

 親を見ていて、自分の人生に選択肢を持つには学力というか学歴が必要だと思った。
 裕福ではなかったので何も言わなかったら高卒で終わっていただろう。でも大学に行きたかったので、高校の推薦入学枠を使って進学する話を先に進めてから、両親に進学したいと言った。
 そして、入学金免除とか、学費優遇とか、育英会奨学金とか、使えるものは使った。もちろんアルバイトもした。
 そして、20代後半、キャリア転換のために、海外留学を考えて準備した。31才でアメリカに渡り、33才でMBAを取得した。
 学費は奨学金が利用できず、親がなけなしの資産から私の結婚資金として貯金していたのを借り、帰国して10年かけて完済した。

・好きな時間に好きな勉強ができ、年齢の違いに関係なく交流できた大学や大学院は好きだった

 大学入学して嬉しかったのは、外国語学部だったから学年でクラス編成はあるけど、選択科目は自分で選べることだったり、年齢に関係なく興味のあることに取り組めたことだったり。クラブ活動はもちろん、NPOに入って歳の離れた友人を沢山つくった。

・語学力は自分の身を立てる武器になると思った

 中学校で英語を習い始めた時、一学期は並みの成績だった。幸い、親が同学年の子と家庭教師をシェアしてくれて、この大学生が生きた英語力を教えてくれたおかげで興味をもって勉強できた。
塾とか行くお金なかったけど、中学3年間の英語の家庭教師は本当にありがたかった。
 中学時代、その時はまだどんな職業が世の中にあるか知らなかったので、漠然とオーストラリアに移住しようと考えたり、同時通訳者にあこがれたり、何となく語学力を強みに生活を立てると考えた。
 小遣いがあまりないので、郵便友の会経由で英文で文通相手をつくり、英語のライティングを自力で学んだ。高校では英語クラブに入って、アメリカ人と直接話す機会をつくった。
 英語一本で入学試験受けるため、夏休みは一日9時間英語漬け。でも受験英語なんて馬鹿馬鹿しかったから、ラジオの英会話プログラムを活用してリスニングとスピーキングとライティングもがっつりやった。後年アメリカでMBA留学するために必要な英語の基礎は、18才の時にできていた。そして、推薦入学試験の英語テストの結果はクラスでも最上位グループに入っていたと思う。
 大学はスペイン語専攻だったけど、クラブ活動で英語を書く機会をつくった。

☆★☆★

 とりあえずここまで。
atd2015に参加するため、フロリダ州オーランドに行ってきた。いろいろ知見はあるが、3月にヨーロッパに出張した時と同じく、帰国して1週間はへとへとで使い物にならない(^_^;)。まして、きちんとした知見録を記録するには、書き始めるのに時間がかかる……。

 母は、とりあえず元気。買い出しにはいけるけど、生鮮食料品の消費期限を見極めることができないので、弟と話し合い、惣菜は弟が自分の分を買い出しに行くことに。週一のヘルパーさんも買い出しに行ってくれるので、家事、まわってます。

 3月に越してきた新居、書棚を購入して少し蔵書を収められるも全然足りず、収納に悩んでます。このまま段ボール箱と共生してしまいそうなので、早めに、収納したいです。

レッドロブスターで、弟の誕生日を母と私の3人で祝う。



 一年前は、まだ母が十分に歩けないのでリハビリ病院に転院して歩行訓練をしていた。移動は、車イスだった。

 また、弟は、一年前の成人式の日にひとり酒が過ぎ、急性アルコール中毒になって自分で救急車を呼んで救急病院に緊急入院。いかにも迷惑そうな病院側に一晩泊めてもらって、翌日引き取りにいった。その後は、弟の薬の飲み合わせも原因と思われたので、行きつけのメンタルクリニックに嫌酒薬の処方もお願いした。さらに、2月後半には、何が原因だったか忘れてしまったけど、弟の不正経理を指摘して小遣いを減額したという顛末だったか……弟が実家の玄関の鍵を締め、雨戸を閉め切ってしまったので外から入ることができず、3日目に有休の半休を取って、交番のお巡りさんに付き添ってもらって、外から玄関の閂を外して突入し、ぐうぐう眠る弟に脱力したっけ。

 ……そして、その忙しさの隙を縫って、住まい探しをして、母が退院する3月13日の前である3月1日に、私は今の住まいに越してきたんだった。その契約もなかなかいわくつきで、委託で大家さんをやっている古屋不動産のおじさんの話を聴きにいった2月8日は、かつてない大雪の日だった……。

 母が倒れた2013年12月26日から退院した2014年3月13日までの約2ヶ月20日の中には、うん十年生きてきた自分が経験したことのない、危機に次ぐ危機があった(幸か不幸か、阪神大震災も東日本大震災も微少ながら被災した体験があるのだが、自分の生命の危機にかかわるほどではなかった)。性格的にややこしくて母と私と弟の人生を少なからず悩ませた父が逝って3年、母が家に帰ってできるだけ自立した生活を送るというゴールに集中させてもらえて、ありがとう。

 ただ、今日は、母の介護保険利用のおかげではあるのだけど、母に入りやすいように風呂を改築したおかげで、腰を痛めた弟にも風呂が入りやすくなったことに、礼を言われた。50余年の付き合いになるが、めったに礼を言われたことはない。

 今日は弟の誕生日ということで、ロウソクと店員さんによるHappy Birthday合唱とショートケーキ1切れがデフォでついていたのだが、さすがに50過ぎてなので合唱はご遠慮ねがった。

 でも、まぁ、一年前から比べて、母は介護度3から要支援度1にまで回復。いまのところ認知症も自立した生活に支障ない程度なので、週に一度のヘルパーサービス、私の3日に一度の訪問で支障なく回っている。弟の食事も簡単なものならつくれるので、その負担もなく、実家から徒歩1分の住まいから見守り暮らし。

 自分ではどうにもならないことがうまく運んで、母が実家に復帰した後は会社員生活(通勤で往復2時間半かかった)を辞め、アルバイト暮らしを経て株式会社設立。まだ収入のめどはたってないけど、いくつかの機会がもうすぐ芽を結びそうだ。

 弟はあいかわらずではあるけど、こうして3人そろって食事ができるだけで御の字。ハッピーパースデートゥーユー。
翻訳をしているので、気付いた言葉についてメモ。

individual contributor(s)
 リーダー、マネジャーなどの管理職に対して、管理職でない社員のこと。専門性をもって貢献する社員、という意味。私は「一般社員」と訳す。

6月末に外資系小売企業を退職し、独立の準備をしてきました。

 12月初旬に株式会社を設立する予定。いくつかある仕事の可能性をどう組み合わせてビジネスとして安定させていくかが、目下の課題です。

☆★☆★

 母が退院し、思っていたよりも回復が進んだことが独立への引き金になりました。
 いずれ会社員生活を離れるつもりでしたので、母が元気で介護をほとんど必要としない今のうちに独立開業して、ビジネスとして安定させておきたい、と。
 企業内人事のタレントマネジメントスペシャリストとして経験できることは大抵やってきたので、これからは外からタレントマネジメントを進める方々をサポートしたいと思います。

 詳しくは、また、改めて。
面白かったと思う……のだが、前後ちょっとバタバタしてて、一晩寝たら忘れてしまった(汗)。

5月14日になりますが、以下のとおり、ASTDタレントマネジメント委員会で、日本のタレントマネジメントの実態調査研究の報告会を行います!当委員会で2年かけて実施した調査研究なので、ご興味のある方は、ご参加ください!
【「タレントマネジメント日本の実態調査報告」開催のお知らせ】
 ASTDインターナショナルネットワークジャパン・タレントマネジメント委員会では、タレントマネジメントの日本における実態調査を行ってきました。今回、その調査結果の報告会を実施いたします。どなたでも参加できますので、ご興味のある方は、是非ご参加ください。
1.日時
2014年5月14日(水) 18:30~21:00
2.場所
  株式会社ヒューマンバリュー フロントオフィス会議室
 http://www.humanvalue.co.jp/hv2/company/access.html
3.内容
 タレントマネジメント委員会では、8社にタレントマネジメントに関する聞き取り調査を行い、ASTDの定義、フレームワークと比較して日本での実態がどう異なるのか、あるいは同じなのか、という問題意識を持ちつつ、調査してきました。その結果、ASTDの定義するタレントマネジメントのフレームワークに対し、日本の実態は一定の特徴があり、また実施状況が類型化できることが明らかになりました。
 類型化の理由、特徴をご説明することで、自社の状況と比較していただくことができれば、今後のタレントマネジメントの方向性について考えていくご参考になるのではないかと思います。
ついては、この調査結果の報告を行い、次いでグループ討議を実施し、日本のタレントマネジメントに関する理解を深めていきたいと思います。
(当日のプログラム)
・調査結果報告
・グループ討議・発表
4.会費
 3000円(当日、受付にてお支払ください。)
5.申し込み方法・定員
 以下のURLからお申し込みください。 https://docs.google.com/forms/d/1hDTtYFBTSqUjzQx_4jFjO7aItMsxSkeku8abnJPMjuQ/viewform
 なお、申し込みは先着35名とし、定員となりしだい締切といたします。
6.写真の撮影について
当日の様子を後日HP等で掲載するために写真の撮影をさせていただくことがありますので、この点をご了承のうえご参加ください。
母が退院し、弟とケアメイトさんの助けを借りながら実家で生活を再開して約2週間になります。

 退院直後から知り合いの水道工事の親方に連絡を取り、介護保険と自治体の補助を受けながらバリアフリー改築を進めています。

介護リフォームに補助金が出るって本当!?
介護リフォーム基礎知識
厚労省 介護保険における住宅改修(PDF)

まず介護保険を利用し、介護保険でカバーされないところは居住している品川区の助成金を利用します。
品川区 住宅改善工事助成事業(エコ&バリアフリー住宅改修)
住宅改善工事助成事業(エコ&バリアフリー住宅改修)

 申請は親方がやって下さっています。品川区は運用が厳しくて、まず申請許可をもらう必要があります(他の自治体は工事終了した後に申請しても許可がおりるところもあるのだけど、品川区は先に許可を取らないと助成金がもらえないそうです)。

申請している工事の例をいくつか……
・階段や廊下に手すりをつける
・風呂の浴槽を、浅いもの・手すり付に取り替える(風呂釜も代える)
・風呂と廊下の段差をなくす、タイルでは転倒リスクが高いのですのこを張る
・シャワーを力が弱くても操作できるものにかえる
・風呂の入り口をガラスの引き戸から軽い折り戸にする
・玄関の段差に、ひとつ段をつくる
・ガスコンロをIHにかえる

 どこまで助成の対象になるか、品川区の立ち合いを受けてから結果が出ます。
プロフィール
HN:
まりあっち
性別:
非公開
自己紹介:
タレントマネジメント(人材開発・組織開発・パフォーマンスマネジメント・採用など)のスペシャリスト。
最新コメント
最新トラックバック
ブログ内検索
本棚
カレンダー
03 2025/04 05
S M T W T F S
1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 18 19
22 23 24 25 26
27 28 29 30
Livedoor BlogRoll
バーコード
カウンタ
忍者ブログ [PR]