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タレントマネジメントスペシャリスト"まりあっち"のブログ。
関口宏のもう一度!近現代史 第99回「昭和20年(1945)玉音放送」
今回は8年に及ぶ戦争に終止符を打った、昭和20年8月15日を詳しく見ていく。15日に日付が変わった深夜、熊谷・伊勢崎・高崎といった北関東に米軍は空襲を行った。この時、日本はポツダム宣言の受諾を連合国軍側に伝えていたにもかかわらず、なぜ空襲は行われたのだろうか。正午、天皇自らの声で伝えられた、4分30秒の「玉音放送」。多くの国民が理解できなかったとも言われる玉音放送の内容とは…その全文を読み解く。玉音放送は日本国内だけでなく台湾や朝鮮半島、南洋諸島にも同時刻に放送された。それぞれの場所で終戦はどう受け止められたのか。そして日本にとって、この戦争とは何だったのか保阪氏が総括する。
 日本のポツダム宣言受諾は8月14日午後11時に連合国に伝えられたが、15日午前零時頃、テニアン島からの米軍機によって熊谷・高崎・伊勢崎が空襲された。  陸軍抗戦派のクーデターも11時過ぎに未遂に終わり、首謀者は皇居前で割腹自殺。  母は当時14才で、玉音放送は雑音が多くてよくわからなかったと言っていた。その晩から空襲に怯えなくてもよかったのが嬉しかったとか、言っていたような気がする。   日本軍の死者、軍人230万人(餓死・病死が多かった)、民間人80万人で計310万人。一方、ユダヤ人のホロコースト犠牲者は600万人というから、さらに凄まじい。   保坂先生による、日本にとって「戦争」とは。 ・「軍事」が「政治」の上にあった ・人間を戦争の「道具」として扱った ・戦争を国家の「事業」として考えた   日本が西洋列強に遅れて起こした近代化の過程で、日清戦争に勝利して巨額の賠償金と領土と資源を得るという19世紀帝国主義的な事業の成功体験を積んでしまったことが、以降の侵略戦争の歴史に繋がっている。
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第98回 「昭和20年(1945)ポツダム宣言・無条件降伏決定へ」
昭和20年8月9日。広島に続き、長崎に2つ目の原爆が投下され、7万人以上の命が奪われる。その時、東京ではポツダム宣言受諾をめぐり、政府と大本営による会議が行われていた。ポツダム宣言受諾を主張する政府と、あくまで本土決戦にこだわる大本営。日本の命運を決める会議では激論が交わされ、最終的に決着をつけたのは、昭和天皇だった。8月14日、昭和天皇の聖断で、日本の無条件降伏が決定。終戦を国民に直接伝える玉音放送の準備が始まる。その一方で、陸軍内では無条件降伏に反対する一部の勢力が、クーデターを画策。徹底抗戦のために天皇と政府要人を軟禁し、玉音放送を阻止するために、8月15日の未明に行動を起こす。偽の命令を発令して宮城(皇居)を占拠するが、天皇の決断を尊重する陸軍の幹部によって、クーデターは鎮圧。陸軍の最後の抵抗は抑えられ、日本はいよいよ運命の1日を迎えることになる。

 8月9日午前11時2分、長崎に原爆投下。プルトニウム爆弾で広島ウラン型の1.5倍の破壊力があったが、長崎の起伏のある地形で被害は広島ほど広範囲ではなかった。人口24万人のうち推計で死者7万人。現在の戦没者名簿では18万9千人余が亡くなっている。
 当時の第一目標は小倉だったが、前日の空襲で八幡製鉄が被災し煙で目視しにくい状況だったため、第二目標の長崎に投下された。また、アメリカは第三の原爆も用意していたが、日本がポツダム宣言を受諾したため、使用されなかった。

8月14日の御前会議にて天皇がポツダム宣言受諾を決定。8月15日にかけて、陸軍の若手将校がポツダム宣言受諾と玉音放送を阻止するために決起したが鎮圧される。また、陸相の阿南は「一死をもって大罪を謝し」と書き残して割腹自殺。

 クーデター未遂のことは不勉強で知らなかった。「日本の一番長い日」半藤利一、読むか映画を見るかしておこう。
Netflix「ターニング・ポイント: 9・11と対テロ戦争/Turning Point: 9/11 and the War on Terror」
80年代まで遡るアルカイダの起源から、米国内および海外におけるテロをめぐる対応まで。あの9・11テロ攻撃を真っ向からとらえたドキュメンタリーシリーズ。

全5回のうち、第1回を見る。これだけで内容濃い。

9.11 事件概要

2021年9月11日8時46分、ハイジャックされたアメリカン航空11便が世界貿易センタービル北棟(WTC Tower 1とも呼ばれる)に衝突、ビルはその後崩落
9時3分、ハイジャックされたユナイテッド175便が世界貿易センタービル南棟(WTC Tower 2とも呼ばれる)に衝突、ビルはその後崩落
また、9時26分、ハイジャックされた別の2機がワシントンDCペンタゴンに衝突
4機のうち、2機がボーイング767型で2機がボーイング757型だった。コックピットの形などハイジャック犯が操縦しやすい機体が選ばれたと考えられている。

アルカイダなど武装イスラム勢力の起源

1979 ソ連アフガニスタン侵攻
 米CIAはソ連侵攻に抵抗するアフガン勢力を支援。
 ロナルド・レーガン大統領とビル・ケイシーCIA長官はCIAに対し「アフガニスタンへ行け」「アフガンとの戦争は避けたい」「ソ連を追い出せ」「後退は許されない」と指示し10億ドルの予算をつけた。84-86年には武装イスラム勢力に数十億ドルを支援。民族や部族、穏健か強硬かによって別れる勢力の代表7人に武器や資金が渡る。その中にはマスードも含まれる。
 1985年までにアフガニスタンの人口1,300万人のうち3分の1が死亡か、負傷か、他国へ亡命することに。パキスタンには200万人が逃れた。
 1988年にアラブ青年がジハードとして戦闘に協力。アラブ人だけでなく、フィリピン、インドネシアなど多くの国から青年が参加。人数は多くなかった。このグループが後にアルカイダを名乗る。

オサマ・ビンラディン
 サウジアラビアの進歩的な家庭出身。実家はサウジアラビアで建築業を営んでおり、実家の重機を持ち込んで参加した。友人たちとグループをつくり、それが後にアルカイダとなった。

 イスラムでは政治と宗教が一体化しており、世界中のムスリムにジハードを呼びかけた。それがテロリズムの形を変えた。

 一方、レーガン政権はイスラム武装勢力にスティンガーミサイルを与え、扱い方を訓練し、彼らがソ連のヘリを撃ち落とすよう支援した。これで形勢が変わり、1989年ソ連はアフガニスタンから撤退。
 ブッシュ大統領はソ連に勝利したと勝ち誇った。イスラムの宗教の力を理解できなかった。
 さらに、アメリカはイラクのフセイン政権を打倒するためにクウェートに侵攻、湾岸諸国の石油供給利権を守ろうとした。

 この流れでビンラディンがイスラム武装勢力の中で台頭。「アメリカは石油とムスリムの富を盗むのが目的」と喧伝し、西側諸国の価値観に対抗し、やがてアメリカへのジハードを提唱する。

1993年2月26日 世界貿易センタービルで爆弾テロ、死者5人、負傷者200人以上(私はこの時期にニューヨークに留学しており、友人の一部がこのエリアに住んでいたのでよく覚えている)。犯人はアルカイダではなかったが、アルカイダは当時別のテロを計画していた。
 アルカイダはムバラク大統領暗殺、ニューヨークのランドマークへの爆弾テロなど計画、一部は実際に爆薬を調合中に検挙された。

 この頃のアフガニスタンは戦乱の爪痕が残り、10年経っても破壊された国土は片づけられておらず、女性は男性の同行なしで外出できなかった。タリバンは旧いイスラムの習慣を復活させ、刑法犯に手足切断amputationや処刑executionを公開で行った。ある殺人犯の処刑では、哀願する加害者家族をしりぞけ、被害者の家族に銃を与え、コーランが流れる中で射殺させた。

 ビンラディンは米軍のサウジ駐留8年を期してケニア・ナイロビやスーダン・ダルエスサラームで大使館襲撃などテロ活動を行い、ローマ教皇暗殺も企てていた。2000年にはアメリカの駆逐艦に自爆テロsuicide attackを行い、米兵など17名が死亡した。
 2001年にはブッシュ大統領が政権を獲ったが、この頃アメリカの情報機関はFBIとCIAが互いに牽制しあい、政治では共和党と民主党が主導権争いしていた。この間にも、ビンラディンは着々とテロを準備し、9.11を実行するに至る。

 第1回だけでも情報量多い。

ヒストリーチャンネル「9.11 〜アメリカを変えた102分」
この番組は、2001年9月11日に起こった出来事を、1分1秒単位で映像と音声を駆使して記録したものです。この120分のスペシャル番組では、100以上の情報源から集められたオリジナルの映像を、ナレーションや解説なしに時系列で丹念に織り交ぜ、運命の日に起こった事すべてを途切れることなく記録している。

このドキュメンタリーは、歴史的な朝に起こったことや体験したことを忠実に再現、当事者たちの感情も共感し寄り添える作品である。

ヒストリーチャンネル 9.11特集
【特集:9.11】9.11〜アメリカを変えた102分〜
2001年9月11日に発生した、アメリカ同時多発テロ。日本ではほとんど公開されていない、当時の映像や無線でのやり取り、監視カメラ映像やテレビ局がカットした未放送映像を紡ぎ、テロ発生直後の緊迫の102分間を時系列に沿って振り返る。アメリカが変わったその瞬間、現地では何が起こっていたのか?真実に迫る。

 2008年に初回放送。今回の放送は2016年版で2008年版に新たな映像と目撃者インタビューを追加している。

 一気見するのがしんどくて、何回かに分けて視聴した。9月11日8時49分から10時36分までの出来事を、1分1秒単位で再現。ナレーションや解説がないので、かえって当時の混乱ぶりを追体験してしまう。

以下、視聴メモから拾い書き。
8時49分 救急911に第1報。非番の消防士が「WTCに飛行機が突っ込んだ」と知らせる。
9時  North Tower(第1ビル) 105階のベライゾンオフイスから100人以上が閉じ込められている
9時3分 South Tower(第2ビル)に別の飛行機が衝突、炎上
9時13分 Times Squareの大画面に中継映る
    North Towerで複数の飛び降り(jumpers)が目撃される
9時21分 North Tower 103階で100人以上が閉じ込められている
    31-35階で多くの負傷者がいる
North Tower、South Towerともに多数の火災を知らせる電話が入る
"Ok, sir. Stay where you are"とか「窓を割りたければどうぞ」「すぐ助け出しますからまっててください」"Don't leave your office. I'll hang you up." など生々しい会話。かける方も対応する方もどんな気持ちだったろう。
9時50分頃 ペンタゴンにもハイジャックされた飛行機が突入したことが報じられる
9時59分 South Tower崩落、真下に崩れ落ちる
10時28分 North Tower崩落、真下に崩れ落ちる
 ともに黒煙と粉塵をまき散らす

 私は少なくとも南棟の崩壊までは日本で中継放送を見ていたと記憶している。

 この一連の事件にどういう意味があるか、Netflixの「ターニングポイント: 9.11と対テロ戦争 Turning Point: 9/11 and the War on Terror」という番組も視聴できる。
80年代まで遡るアルカイダの起源から、米国内および海外におけるテロをめぐる対応まで。あの9・11テロ攻撃を真っ向からとらえたドキュメンタリーシリーズ。
 何が起こったのか、その後どうなったか、政治的背景を含めて理解してから考えを整理したい。

NHK 事件の涙「終わりなき“9・11” 日本人家族の20年」
アメリカ同時多発テロ事件から20年。3千人近い犠牲者の中には24人の日本人も含まれている。日本人家族の20年をたどり、終わることのない“テロ後”の現実を見つめる

世界を震撼(かん)させたアメリカ同時多発テロ事件から20年。3千人近くにのぼった犠牲者の中には、24人の日本人も含まれている。愛する人を突然奪われ、悲しみや苦悩、葛藤を抱えながら事件後の日々を生きてきた日本の家族たち。アメリカとアフガニスタンの関係が悪化し、再びテロの危機が叫ばれるいま、何を思うのか。それぞれの20年をたどり、決して終わることのない“テロ後”の現実を見つめる。
2977人の死者に24人の日本人が含まれている。

伊東和重さん 当時35才
銀行マンの息子として育ち、大手銀行に入行、妻を伴ってNY勤務3年目。
建物内で目撃された後に行方不明。銀行から行方が確認できないと日本にいる父親に連絡。
同年9月に他の日本人家族とともに病院などを尋ね回るが手がかりなし。
父は76年前の広島原爆で2才年上の兄を失っていた。

住山陽一さん 当時34才
大手都市銀行ニューヨーク支店勤務。
父は事件の背景を知るため手当たり次第に記事や書籍を読んだ。アメリカ政府が発行した9.11 Commission Report 570べーじを電子辞書を頼りに一語ずつ調べて翻訳。このほど出版にこぎつけた。あとがきで直近のアフガン情勢にも触れる。

白鳥敦さん 36才
ニューヨークの証券会社に勤務。
父は日本で焼き鳥店経営。事件の4年後アフガニスタンを旅行し、現地の事情を理解しようと努める。衣類や教材の寄付などアフガニスタンの子供たちへの援助を行う。
昨日は9.11から20年ちょうどということで特集番組を見て過ごした。

2001年9月11日……アメリカと世界を変えた102分間
 当時はたぶん報道ステーションだったと思うがリアルタイムで入って来た映像が衝撃的だった。

 自分が直接関わった事故・事件でもっとも大きなものは東日本大震災(千葉の幕張で経験)と阪神淡路大震災(尼崎市で経験)だけど、直接関わっていなくてもリアルタイム報道で身近に感じた事件がいくつかある。日航123便墜落事故、1993年の世界貿易センタービルテロ事件、地下鉄サリン事件、JR尼崎脱線事故、そして9.11。

NHKスペシャル「9.11 閉ざされた真相〜遺族と国家の20年〜」
20年前、アメリカの中枢に旅客機が突っ込み、2977人が犠牲となった同時多発テロ事件。その実行犯の大部分がサウジアラビア国籍だった。「この国の何者かが背後で関与していたのではないか」。疑念を抱く遺族たちは捜査に関わる情報の開示を求めてきたが、歴代の政権によって拒まれてきた。取材から見えてきたのは、経済と安全保障で深く結びつく両国の特殊な関係。国益を優先し、遺族に背を向けてきたアメリカの姿を伝える。

 アメリカ政府がいまだ開示していないことがある。28ページにおよぶ報告書の部分。アメリカと同盟を組んでいたはずのサウジアラビア政府がテロリストを支援していた可能性を示唆していた。

 アメリカという国は自由と民主主義の国というイメージを持っている日本人も多いのではないかと思うが、30年前に2年間湾岸戦争の中をアメリカで生活してみて、何よりも軍事が優先される国だと感じた。軍産複合体が国の経済と政治に深く関わっていることが大きな要因だと思うが、The Civil War南北戦争という大きな戦争を経験した後のアメリカはひたすら他国での戦争に関わって経済的にも軍事的にも発展を遂げてきている。それがパレスチナへのイスラエルの侵略にも、今回のアフガニスタンを含めたイラン・アフガニスタンへの軍事介入にも、表れている。
NHK 事件の涙「たどりついたバス停で〜ある女性ホームレスの死〜」
去年、東京・渋谷のバス停で男に殴られて死亡したホームレスの女性に大勢の女性たちが自身を重ね、声を上げている。事件が社会に問いかけるものとは何か、明らかにする。

去年11月、東京・渋谷区内のバス停で休んでいたホームレスの女性が男に殴られて命を落とした。当時、所持していた現金はわずか8円。生活苦の末に行き場を失い、事件に巻き込まれた。「彼女は私だ」、「彼女は社会に殺された」。いま大勢の女性たちが被害者にみずからを重ね、SNSなどを通して声を上げ始めている。事件が社会に問いかけるものとは何か。女性のたどった人生と女性たちへの取材から明らかにする。

 非正規雇用で一生懸命働いても1日8,000円の中から家賃や水道光熱費や食費など最低限の生活を維持するのは大変で、まして毎日その仕事があるわけではない。そんな不安定な生活からアパートを借り続けられることができず、夜逃げしてしまう。おそらくはネカフェで寝泊まりしつつ、非正規での仕事を続けようとしただろう。しかし、コロナ禍で試食販売員の仕事も途絶え、ホームレスとしてバス停のベンチで夜を明かす日々。所持金が底をつき、炊き出しでかろうじて生をつなぐ。
 先の見えない日々の中で、ある日、「邪魔だった」「痛い思いをすけばいなくなると思った」と、男がペットボトルと石が入ったポリ袋で彼女の頭を殴り、人生を奪われた。

 近県に住む弟にはクリスマスカードを送っていたが、2年前の冬に途絶えた。彼に頼ることもしなかった。生活保護を求めた形跡もない。電池が切れ、契約も切れていただろう旧い携帯電話に母と弟の電話番号が記録されていたそうだが、職と仕事を失ってからは連絡する資格がないと思っただろうか。

 "彼女は私だ"と思った人々が渋谷で追悼集会。

 私もコロナ禍で外出を控えてなかったら、追悼集会に参加していたかも知れない。仕事が途絶えたら衣食住の全てが回らなくなり、セーフティネットの存在を意識することもなく、家族や友人知人に助けを求めることも考えられず、漂流する砂漠に迷い込むのは、いつ私の番になるかも知れないと思うから。

BS-TBS 関口宏のもう一度!近現代史
第97回 「昭和20年(1945)原爆投下・ソ連軍の対日参戦」
連合国から出されたポツダム宣言に対し鈴木貫太郎首相は「黙殺」を表明。日本の意図は?8月6日人類史上初の核攻撃が行われます。なぜ広島が標的にされたのでしょうか?そして、8月9日にはソ連が満州へ侵攻。さらには樺太、千島列島へと兵を進めるのですが、その裏にあった「ある国」の支援とは?今回は7月28日から8月9日まで、日本が原爆という未知の攻撃に直面する2週間を紐解きます。

 昭和20年7月28日から8月9日。

7月28日、鈴木貫太郎首相はポツダム宣言を「黙殺」とコメント。
欧米メディアは"ignore it entirely"と解釈し、"reject it"と報道。日本はソ連を窓口にして和平交渉をするつもりでいたが、対ドイツ戦を終えたソ連は対日参戦する気満々で日本の本音を無視して待ちぼうけを食らわせ、満州との国境付近に戦力を終結させていた。アメリカはソ連に先を越されたくなくて早期決着をつけようと二発の原爆を用意した。

この辺りのボタンの掛け違えは日本国民として悲しいし悔しい。すでに沖縄戦でも多くの国民、特に非戦闘員が「根こそぎ動員」のためにあたら殺されてしまったが、このタイミングで受諾する意向を示していたら二発の原爆は落とされなかったかも知れないのだ。

(もちろん、ここに至るまでの戦略戦術ロジスティックスすべてにおいて間違いを続けていた大日本帝国の政府と軍部に責任があるのだが)

改めて広島に落とされたウラン型原子爆弾。高度600メートルで爆発し、直径280メートルの火球を発生させる。爆心地の温度は3000〜4000℃。3.5キロメートル離れた地点でも火傷する火力。爆風で半径2キロ以上の木造住宅はほぼ倒壊、その後発生した火災で半径2キロ以内はほぼ消失。昭和20年12月時点での推計死者14万人、今年8月時点での累計死没者32万人。広島県物産陳列館だった建物は爆心地の真下に建っていたため、爆風が真上から吹き、倒壊を免れた。「原爆ドーム」として平成8年に世界遺産に認定される。

一方、満州のソ連との国境付近では2月から兵力が終結していたことを陸軍は把握していたが、黙っていた。というのも、昭和16年には85万人の兵力があった関東軍だが、南方戦線に兵力を取られて昭和20年には10-20万人の兵力しかなかった。無理矢理「根こそぎ動員」で現地の在留邦人など40万人を集めて70万人ほどにしたが、軍服も軍備も十分にない。ソ連が攻めてきたらとても対抗できないのは明らかだった。そして「動員」された人々の中には、戦闘で殺された人々たちだけでなく、ソ連に抑留された人々もいた。

ソ連は満州以外にも南樺太、朝鮮半島、千島列島に出兵。8月28日から9月4日にかけて北方四島に上陸したが、ソ連側資料では9月2日までとなっている。というのも、9月2日に日本が戦艦ミズーリで降伏文書に署名しており、9月2日以降の戦闘を認めるわけにいかないから。北方四島の帰属問題の背景のひとつでもある。ちなみにソ連の上陸作戦にはアメリカが武器弾薬や船舶を援助している。

次回は8月9日から8月15日。ソ連参戦、長崎原爆、玉音放送。。
NHK逆転人生「あの日“加害者”になった私 東電社員たちの10年」
原発事故後、賠償や除染などのため福島に赴任した3人の東京電力社員たち。被災者の怒りや悲しみに触れ、苦悩しながら奮闘した10年間。山里・丸山桂里奈が涙した物語。

原発事故で暮らしが一変した福島に、賠償や除染のため赴任した3人の東電社員たち。賠償相談窓口で浴びせられた罵声。基準超えの放射性物質が検出された農村の現実。3人の東電マンは、被災者の怒り、悲しみ、優しさに触れながら、復興のために全力で走り続けた。彼らはやがて、福島の人々と固い絆で結ばれるようになる。かつて東電社員として福島第一原発で働いていた丸山桂里奈さんをゲストに迎え、10年間の物語を見つめる。
「お前タバコを吸っているな。タバコを吸うほど余裕があるなら弁償しろ」という人もいれば、
「おまえの会社に文句を言っているのであっておまえ個人にではない」という人もいる。

 人生を、家族を、家を、コミュニティを奪われた人たちにとっては、金で解決できない多くのものを失ったのだから。

 仕事の合間につくった農作物が放射性物質検査でパスした時、地元の夏祭りに参加しようとした時に、祭の会長が「もうけなくていいから金取れよ」施しは受けないという精神。東電社員たちが祭に参加していることをアナウンスして「オトナの対応をしてください」という声を添えた。

 人としてどうあるべきか、考えさせられる。
BS世界のドキュメンタリー「“裏切り者” 米軍現地通訳者のそれから」
イラクやアフガニスタンで駐留アメリカ軍を支援した現地の通訳者たちが、過激派に「裏切り者」と見なされ命を狙われている。元通訳たちと家族を長期取材し、現状を伝える。

祖国の復興を助けたいと駐留アメリカ軍の通訳に志願したアフガニスタンの男性たちは今、イスラム過激派により「裏切り者」と見なされ、命を狙われている。顔を隠し家族で引っ越しを繰り返す者、難民ボートでヨーロッパへ向かう途中で船が難破し妻と娘を失った者。人生の再建を図ろうとする元通訳者たちの不安と苦しみを描き、映画祭で数々の賞に輝いた作品。原題:The Interpreters(アメリカ 2020年)

 アフガニスタンでタリバンが政権を獲得し、米国や日本などが協力者とその家族をどう扱っているかを見ているタイミングでの視聴なだけに、"特別ビザ"発給に月日がかかる米国にヤキモキしつつ、大使館関係者以外を置き去りにしている日本のデタラメさに改めて腹を立てた。
プロフィール
HN:
まりあっち
性別:
非公開
自己紹介:
タレントマネジメント(人材開発・組織開発・パフォーマンスマネジメント・採用など)のスペシャリスト。
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