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タレントマネジメントスペシャリスト"まりあっち"のブログ。
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関口宏のもう一度!近現代史 第102回 「昭和20年(1945)昭和天皇とマッカーサーが初会談」
終戦から1か月、連合国軍が日本をどのように統治していくのかが具体的になってきた昭和20年9月半ばからを詳しく見ていく。報道機関には「プレスコード」と呼ばれる、守るべき基準が示され、連合国軍を批判する記事は規制された。また9月から再開した学校では戦中の教科書から軍国主義を連想させる部分を塗りつぶした「墨塗り教科書」が使われた。そしてこの時期、日本政府にとって大きな関心事だったのが「天皇制の維持」だ。政府が天皇制維持のために「天皇とマッカーサーの会談」を模索する中、外相・吉田茂が動き、約35分間の会談が実現した。その会談で二人は何を語ったのだろうか…日米に残された記録は微妙に食い違っていた。
9月19日 報道機関に「プレスコード」通達
「報道は真実に基づかなければならない」と「GHQに都合の悪い報道は許さない」との矛盾。占領統治下の日本で起こった近現代史の中の大きな矛盾のひとつ。

9月20日 文部省が戦時教材の「削除」を通達
 母が当時14才で、まさに「教科書に墨を塗った」世代。「削除」されたのは、国防・軍備を推進したり連想したりするもの、戦意高揚をうたうもの、和心(連合国に降伏したこと)を妨げるもの。

中国国民党と共産党の対立
 旧日本軍105万人が当地で投降した。ほとんどは帰国・復員したが、一部に中国国民党または中国共産党に引き入れられた日本人もいた。

マッカーサー・天皇の会談
 吉田茂がセッティングした。吉田は戦時中に吉田反戦グループ(暗号名「ヨハンセン」)に属しており、憲兵隊に逮捕拘束されたことがあった。それがマッカーサーの信任を得るエピソードとなった。

初の復員船が別府に到着、1626人
 メレヨン島(グアム島の南)に派兵された5,600人のうち、多くが餓死・病死した。生き残った1626人に病院船高砂丸が派遣され、復員。  他の地では、BC級戦犯の裁判待ちなどあり、復員に日時がかかった。

9月27日 マッカーサー・天皇の会談
 吹上御文庫から車で桜田門・虎ノ門を経てマッカーサー公邸(現アメリカ大使館)へ。天皇の公用車が初めて信号機で止まったのを一般人が目撃している。  (会談についての保坂・関口コメントを聴き逃してしまったので、あとでもう一度見なければ)。
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